- 2004年6月 9日 01:45
- diary
午後打ち合わせの帰り途中、自転車で表参道を走っていたら取材を受ける、たしか某青年誌、PかHの自転車特集だったような…、そして最初は前々から考えていた自転車通勤の事から書きはじめ、なんか最後は自転車とは全然関係ないまとまりない文章になっちゃってますが…、自転車からはじめ最近自分自身が思う事も含めて…。
元々なぜ自転車通勤をはじめたかというと、学生時代に買ったSRというバイクを(今は車検切…)10年以上乗っていて通勤にも使っていたのですが、デスクワークの上、バイクで通勤するとドアトゥードアでどこでも行けちゃう上、普通に歩くという運動すらしない状態になり、運動不足で体ちょっと壊したりした事が自転車通勤にチェンジするきっかけでした。そしてそれからもう一年以上チャリ通勤しているのですが、やっぱり乗り物によって体感スピードがあり、同じ道で通勤していても車、バイク、自転車と見える事、景色が違って最初は新鮮だったんですね、まああたりまえっちゃー当たり前なんですが、それに付け加えて自分で漕ぐという事の重要さ(自分の事は自分で賄うというか…)、これもごくごく当たり前の事なんですが、物体を移動させるには必ずエネルギー消費が伴い、車、バイクで言うとガソリンを爆発させそれを運動エネルギーに変換し、自転車ではそのエンジンの役割を人が行っています。そしてそういった行為の対比の中で気が付いた事は、今までは当たり前だと思っていたそういったエネルギー消費率がいかに自分の生活の中では効率悪かったということでした。多分人というのは自分が体感できない事についてはやはり感覚が鈍くになってしまうのだなーと、単純な話、例えば自転車通勤をしている時でも、なるべく楽をしようと無駄に漕がず、ブレーキもなるべく踏まず、自然に楽に目的地まで行ける様にするようになります。車でもストップ&ゴーを繰り返すのは燃費も悪くブレーキパッド、タイヤなども擦り切れ効率はよくありません。ですがこれは実は頭ではわかてっていても直接体感できない事なので、余程の意思とモラルがない限りついつい余計に消費しちゃいます。つまり車では1t以上もの物体を動かし今のアクセルひと踏みでどれだけの物を消費したのかなんて実際その時想像できないのです…。そして極端な話実際1tの車をその距離だけ自分で押してみないとその分使ったエネルギーの痛み?疲労なんてわかんない訳です。まあ想像するだけでも無理なんですが…。そうした事を意識しないでいた自分にちょっと愕然としたのです。
そしてそこで思ったのはこれは自転車通勤に限った事ではなく、多分自分のものづくり考え方にも全くつながる事だなーと。学習してわかったつもりになっている事と、経験、体験を伴った理解とでは雲泥の差がある、そしてメディアの発達により色々な情報を手軽に手に入れる事ができる様になった代償なのかもしれませんが、間接的経験による“知ったつもり”、“わかったつもり”になってしまっている事がいかに危険で、そして今の世の中は実はそういった錯覚を起こしやすい状況なのではないかと。自分で意識していなかっただけに…、というか明らかに自分の問題なのかもしれませんが。
そして思うのは人間には経験できる時間も空間も人も限られていて、物事を理解する、経験するという事には限界がありますが、その限界をちょっとでも超える事ができるのが、自分では経験できない又は体感できない出来事をいかに自分の中に取り込んで、それをどこまでリアルに想像できるかという力、それが創造力であり、思いやりであり、大きな意味でいう愛とかではないかと思っています。ただやはり現在の社会全体が消費社会寄りでうまくバランスが取れていないと感じる事もあり、なんというかもっともっとそういった体感創造力??みたいな物をひとりひとりが持てば適材適所に効率よく色々な方法が考えられるのではないかと思うのでした。
話は変わりますが、今事務所で愛用しているグラスのデザイナー、コンスタンチン・グルシックは「私はマーケットのような抽象的実体に向けてデザインしているのではない。私がよく知っている、私が愛している、私にとってリアルな人たちのためにデザインしている」と言っています。前にちょっと紹介した「自分の仕事をつくる」という本の中でもヨーガンレールさんは自分の欲しいもの、長く使える物しか作らない、という事をおっしゃってました。
身体の体感できるスケールというか、そういう事を大事にしている様に感じます。
実際今までの流れでいう道具というものの殆どは、身体機能を拡張する機能を持っていて、自転車は足の、電話は口、又は耳の、コンピューターに至っては脳の拡張です。現在のそういった便利な文明全てを否定するつもりもありませんし、後戻りできるとも思っていないし、例えば自転車には自転車の、コンピューターにはコンピューターの良さがあるとも思ったりするのですが、そういった消費社会、身体に楽をさせすぎるバランスの悪さに時々違和感を覚える事も正直あったりします。
そしてものをつくる人間にとってこういったバランスやスタンスをはっきりさせるのはやはり必要な事で、そしてやはり自分の経験できる事、体感できる事を基本、手掛かりにしていくしかないのかなと。そういった事は理解でき、ごく正直まっとうな事だと理解できるのですが、WEBや印刷などは予め多くの人の目に晒されるものなので、そこの部分のバランスみたいなものは自分の中で葛藤があったりします。なんか結局取り留めなく、しかも締まりもなくて何が言いたいのかわからなくなっちゃいましたが、ここら辺の自分自身の問題はまた以後も色々考え続けます、というかぐだぐだ考えないで仕事します…。
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